週明けに我が家で9度目の引越しがあるのだけれど、情けないことに腰を痛めてしまって役に立たない。娘が目の前で、大学の履修科目の登録をしている。「グレートジャーニー」で知られる文化人類学の関野良晴さん*1の講義を受けるらしい。
うらやましい。そう思いながら、友人*2に勧められた真木悠介さんの『気流の鳴る音』を読む。40年前の本だけれど、この先、僕らにとってとても大事なことを示唆してくれている。
第1部は、カスタネダ(人類学者)とドン・ファン(老インディアン)の、人間の生き方をめぐる問答と、著者の思考が交差して進んでいく。
その中で「明晰は知者の敵」という話がある。おや?と思うが、少し考えてみる。自分の持っている特定の説明体系が盲信につながる、とある。そうか。それにしても、この「明晰の罠」は、この本が書かれた当時よりも、ソーシャルメディアによって、より巧妙に張り巡らされているのではないか。
ドン・ファンは、「目の独裁」があるという。
”まずなによりも目から重荷をいくらかとりのぞいてやらねばいかん。”
”わしらは生まれたときから物事を判断するのに目を使ってきた。わしらが他人や自分に話すのも主として見えるものについてだ。戦士はそれを知っとるから世界を聴くのさ。世界の音に聴きいるんだ。”
ダイヤログ・イン・ザ・ダーク*3というワークショップがある。完全な暗闇の中で1時間ほど過ごすのだが、数年前に訪れたとき、ハンドベルの音を聞いていて、とても豊かな色彩を感じたことがある。ここに来ると、自分がどれだけ豊かな感覚を失っているのかが、人それぞれの形でリアルに感じるだろう。
著者は、仏教で五根を眼・耳・鼻・舌・身の順に並べるのは、意味があると言う。「身」による認識は文字通り「身をもって」せねばならない。場合によってはリスクがある。その分、深いと。一方、視覚は主体自身の身を賭することを最小限にして対象をこまかに知覚することができる。我々はそれを発達させ、すっかり依存するようになった。
でも実は、身体は多くのことを知っている。深い知恵につながっている。この半年の間、何度かのワークショップ*4でそのことを体感した。
ドン・ファンはカスタネダに、からだは多くのことを知っているけれども、学んで欲しいのは<見る>ことだという。カスタネダは、「見ないで聴くこと」「焦点をあわせないで見ること」「影を見ること」などを通じて<見る>ことを体感していく。
話は変わるけれど、ある場で人工知能の研究者の松尾豊さんが「AIの進化を端的に言えば、見ることができるようになったこと」と話していた。我々の生活や仕事は、見ることを中心に成り立っている。AIが見る力を得たことで、自動運転や医療など活用領域が大きく広がった。AIが仕事を奪うのでは、という議論の背景はここにある。
ドン・ファンは<見る(see)>と<ながめる(look)>は異なる、と言う。AIが得つつある力は後者なんだろう。そうだとすると、これからは真に<見る>ことを学んで、豊かに生きるチャンスがあると考えられないだろうか。そうできなければ、僕らは不安な闇の中でおろおろするしかない。
*1:https://www.1101.com/greatjourney/2013-03-27.html 関野さんと糸井さんの対談。
*2:http://www.homes-vi.com/teal/ 場とつながりラボ home's viの嘉村賢州さん。ファシリテーションが主な仕事だけれど、引き出しが広くて、しかも深い。昨年から、未来の組織(Teal Organization)についての勉強会をやっている。
*3:http://www.dialoginthedark.com 最近は予約が取りにくくなったが、ぜひ体験してみて欲しい。
*4:http://jrc.jalan.net/cocre/lab/interview_oda/ 写真は、コクリ!プロジェクトという、マルチステークホルダーが集まり、信頼できる場を通じて、大きなシステム変容を起こしていく取り組み。