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日々是好日

テクノロジーが社会を変える

立川談志 71歳の反逆児

談春師の『赤めだか』を読んで、ちょうどいい具合に、NHKで談志師匠のドキュメンタリーをやっていた。録画してあったものを夜中に観る。最後にはなぜか正座していた。

テーマはいろいろある。一つはもちろん落語。

「落語とは人間の業の肯定である」と、弱冠29歳にして名著『現代落語論』で看破した天才が、どのように至高の芸に近づこうとしているのか。激しい自身の人生をそのまま落語に投影して、談志は何を語ろうとしているのか。「俺は大衆に向けて落語をやっているんじゃない。落語は選良のものだ」というが、日本に「選良」は残っているのか。

談志を通じて見えてくる「日本人」。

「日本人は変わってしまった」と師匠は嘆く。「富久」のせつない場面の熱演に対する観客の笑いへの苛立ち。共感の喪失。新潟に田んぼを持ち「米作りで得たお金と株で儲けたお金は札の色を変えて、価値を変えるべきだ」と吼える。「幸せの基準をもたない奴はいやだね」といまの日本人を斬る。

そして番組中、カメラは談志の「老い」を執拗に追う。

十八番の「芝浜」の話が途中で飛ぶ。頭をかき、首をかしげ、必死に噺をつなげる師匠。身体の不調、精神の変調。「65歳で死にたい」といいながらも、齢70を越えてもなお高座に出る談志。天才とは言え、老いに対するおびえ、死への恐怖は一般人と変わらない。そのことへの苛立ち。

「赤めだか」を読んだ直後のせいか、見終わって心の中で反芻したのは「了見」という言葉だ。いまはすっかり使わなくなってしまったが、落語ではよくでてくる。「あいつの了見が知りたいんだね(厩火事)」という具合に。

はじめて立川流の二つ目昇進試験の場にカメラが入った。問われるのは根多を50憶えたとか、踊りができるというスキルではなく、落語家としての「了見」だ。

いつの時代でも年長者から若者というのは理解し難い。私の元にいる若きコンサルタントについて、彼らの「了見」はどうなんだろうと夜中にじっと考えた。