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日々是好日

テクノロジーが社会を変える

グローバル資本主義はいかにして生まれたか?


資本主義が未来をつくる、という前向きな本に、曰く言い難い違和感を感じたということを先日書きましたが、そんなときにふと書店で手にとった本がこれでした。『千夜千冊』というぶったまげるような書評集を出し博覧強記で知られる、松岡正剛氏(セイゴウ先生と呼ばれたりするらしい)の『世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』という本です。

16世紀からの、国民国家が形成されて資本主義と自由主義が生まれて拡散していく歴史を、文字通りタテヨコナナメに語っていきます。講義から起こした本なので、その語り口はやさしく、500頁近くの本ですが週末に一気に読みました。

この本は「資本主義の岐路」の一つ(の可能性)を、日本的なるものの中に示唆しているという点で、いろいろ考えさせられるものがあります。最初の章から少し抜書きしてみましょう。

<たとえばわれわれはいま、「民主主義」とか「資本主義」とかいうとても大きなしくみのなかにいて、それを便利な空気のように当然だと思っているわけですが、よくよく見ると、そこには矛盾だって、不都合なことだって、いっぱいあるわけです。
 それをまるめこんで「いい社会」だとか、「もっとよくなる」とかと安易に言ってはならないでしょう。「こういう矛盾がある」「こういう限界もある」と、ちゃんと言ったほうがいい。だいたいどう見たって、いまの日本は、家族社会も学校社会も企業社会も官僚社会もけっしてうまくいってませんからね。
 でもそれは現在のわれわれのせいだけではないとも言うべきなんです。なぜなら「民主主義」や「資本主義」が成立してきた基盤や背景に、もともといくつもの矛盾や問題が起源していたんです。(中略)>

<さて、いまわれわれはどんな社会にいるんでしょうか。昔にくらべれば、自由で平和な社会にいるのでしょうか。社会保険やケータイやグーグル検索にかこまれて、便利きわまりない社会にいるんでしょうか。
 どのようにこの社会をみればいいのか、その見方はいろいろありえますが、おおざっぱにいえば、今日の社会は、近代がつくりあげた「民主国家」というしくみと、そのうえにのっかって国境をこえて広がった資本主義的な「自由市場」と、そしてイスラム諸国に見られるような「宗教社会」と、そして「工業製品」と「自然環境」のせめぎあいの上に成り立っています。(中略)>

<このように資本主義を正当化するにしても批判するにしても、どうも奥歯にモノが挟まった感じが拭えません。それなのに、世界は傲然とグローバル資本主義に向っている。
 もしこういう方向が今後もなかなか止まらないのだとすると、これはひるがえって、資本主義を成立させている何かの由来や基盤のほうを、みんなで問題にしたほうがいいのかもしれないのです。>

英語の題は「The Errors of Nation State」とあります。特に本書では「イギリスのまちがい」を強調し、それをアメリカも日本も踏襲したと論じます。

その「まちがい」とはなんでしょうか。わたしの理解では、「個人」を合理的な欲望を追求する存在と画一化し、その利害を実現するために、株式会社、三角貿易、植民地などをイギリスが発明、画策してきたことです。それが現代に至ると、資本主義は自らを食い尽くす自己撞着に陥り、実物経済を何十倍も上回る金融経済に振り回されて、制御しがたい様相を呈しています。

こう書くと、断定的、直線的な論調で、少し引いてしまいそうですが、筆者はタテヨコナナメに膨らましながら語るので、割合にすんなり読めます。(それが作戦かもしれませんが)

ここでわたしに頭に浮かんでくるのは、何度か書いた「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」の問題です。それは、村上春樹やジョン・アービングの小説の中で々語られ、彼らが戦っているテーゼであると思います。

以前ここで書いたことを繰り返すと
1)自我や我執を捨てて、それらは無だと思うこと
2)一方、翻弄される自己については、やれやれと思いながらも
3)規範や徳義を行動をもって示すこと
ということです。

個人は、これが大変難しいことだとしても、大体整理がつくように思います。しかし、皆が明日から個人事業主になるわけにもいかないので、わたしにとっては、「じゃあ企業はどうすればいいの」という問いが残ります。あるいは、「何のために企業/事業はあるのか」という問いかもしれません。

これがなかなか難しい。

ただ、考える方向としては、「取引コスト最小化」という極めて合理的な考えによる単位と、そこでの「超過利潤の最大化」を目的とする、というところから考え直す必要があるのかもしれません。

今日はこの辺で・・・